ハレルヤー
キリスト教福音宣教会のMiKです!
先日の記事で漫画を描きながらのもがきと葛藤と悟りについて触れ、
漫画家になりたかったけれど、それは私の道ではないと悟ったものの悔しさが残り、
「今もある悔しさが解かれていくにはこれまた時間がかかると思いますが…」
と最後の方に書いていたのですが、
その記事を公開した翌日(2023年8月5日土曜日)に神様が悟らせてくださったことがあり、だいぶ考えを転換するようになりました。はっや。
何を通して転換したかというと、タイトルにある通りきゅうりサラダです。
きゅうりサラダから神様との深い霊界の対話に発展し(笑)、自分の姿を神様視点で考えるようになりました。
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その日、お昼ごはんに家できゅうりサラダを食べていました。
サラダと言っても、きゅうりスライスにごまドレをぶっかけただけです(←料理の見た目にこだわらない人)。
その時、
「同じウリ科でもきゅうりは生食が多いけどズッキーニは茹でたり焼いたりすることが多いし、ズッキーニの食べ方できゅうりを食べたりしないですねぇ」(※私の知る範囲で)
と、神様に話しました。
すると、
「きゅうりとズッキーニはウリ科で似てるけど個性が違う。そのように私も漫画家の道を行く人とは個性が違う」
という考えが浮かび。
自分が漫画家(商業漫画家)の道に行けなくて悔しく思っていることを、きゅうりとズッキーニに置き換えて考えてみるようになりました。
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幼い頃からズッキーニに憧れて育ったきゅうりくん。
ズッキーニのあんな料理、こんな料理になるのを夢見ていました。
でも育ってみたら、自分はきゅうりだった。
こんな状況を想像してみたところ、
非常に残念
に思えました。
ズッキーニに憧れてズッキーニのいいところばかり見ているから、きゅうりとしての自分の良さに目を向けられなくなっているし、ズッキーニに考えを囚われている間はきゅうりの良さなんて見えなさそうです。
※きゅうりもズッキーニも苦手な人は喩えがよく分からないかも知れないので「将来焼きナスになることを夢見ていたトマト」に置き換えてみてください。
つまり、
漫画家に憧れて悔しがってる自分が、神様の目から見てまさにこんな状態なのだということを悟り(神様は創造者でその人の個性や素晴らしさも全て分かるからどれほど残念でしょうか)、
「あ、もうこれ考えたらダメだわ」
と、思って、その考えを徹底的に切ることにしました。
もはや憧れる必要がないし、考える必要がないということを悟りました。
そして先日の記事の通り、自分が漫画家の道に行く個性ではないことについて(漫画家に憧れるあまり)恨めしくも思ったのですが、それってさっきのきゅうりとズッキーニに置き換えるとこんな感じで、
めちゃくちゃ創造主の心情を痛めることをしてますね。(これはもう自己否定の塊…)
分かってはいたけど、比喩を通して神様視点で見てみると本当に心情に合わない。
さらにちょうど同じタイミングでこんな聖句を目にしました。
陶器が陶器師と争うように、おのれを造った者と争う者はわざわいだ。粘土は陶器師にむかって『あなたは何を造るか』と言い、あるいは『あなたの造った物には手がない』と言うだろうか。
イザヤ45:9
私、わざわいだわ。
この聖句が引用されていた御言葉の中では特に個性の話をしているわけではなかったのですが、まさに、な聖句でした。
実際に商業漫画家が合う合わないを経験してみて悟ってこそ、自分も納得して諦められるだろうに…なんてことも考えたんですが、経験して悟ろうとすると、数年単位で時間が過ぎ去る気がします。
なので、その道じゃない、と前もってはっきり分かるのはむしろ感謝なことだなぁと思いました。
憧れって良いところしか見えないので(フィルターかかってますよね)、輝いて見える道も実際は泥臭くて大変なことがたくさんあって、個性に合わなければ本当に大変で結局最後まで行けないのだろうなと思います。
…と今は悟ってますが、神様の御心の中で何が起こるか分からないので、こんなことを言っておいて今後漫画家になる可能性もあったりするのかも知れません。でももうその辺は御心通りです。いったん憧れは捨て去ります。
きゅうりとズッキーニの喩えを通して悟った後、神様に、
「私はきゅうりなので、もっときゅうりの良さを分かって、きゅうりの人生(?)を生きられるようにしてください!」
という、傍から聞いたら意味不明なことを祈っていました。
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こんなことが土曜日にあって、その翌日は主日礼拝でした。
礼拝で伝えられたのは「また、私に学びなさい」という御言葉だったのですが、前日に考えが転換できてスッキリしていたためか、いつもよりも御言葉が深く入ってきました。
そして、
「今、この御言葉を聞けていることがどれほどものすごいことか!」
と、一次元深く悟られました。
考えを空けると御言葉を悟れる、というのは学んでいたし経験もあったけれど、改めて新しい感覚で実感した感じでした。
また、肉体が生きている間にする肉の仕事(生きるため、生活するための仕事)は、神様の目から見てそんなに大事なことではないのだろうなと感じられました。
神様から見て一番尊くて大きい仕事は、御言葉を述べ伝え、主を伝え、時代を知らせる仕事。
今、そしてこれまでも、私はその仕事を思いっ切りさせてもらえてるのだから、どれほど尊く、また幸せな人生なのだろうか?と感じられました。霊が震えている感覚がしました。
礼拝が終わってから神様に祈り、その悟りを告白し、感謝を告げました。
そして礼拝からの帰り道、車が2台並んで停まっているのを見たのですが、
2台とも同じナンバーで、特別な意味を持つ数字でした。
(※神様の世界では数字にも意味があって特別な意味を持つ数字の組み合わせがあります。私はけっこう車のナンバープレートの数字から神様のメッセージを受け取ったりします)
今まで信仰生活をしてきて何度もこのナンバープレートの車は見てきましたが、2台並んで見たのは初めてだったので、めちゃくちゃびっくりしました。
神様が祈りの告白を受け取ってくださって、ものすごく喜んでいらっしゃるように感じました。
前日のきゅうりの祈り(笑)にさっそく答えてくださったようでした。
「自分がやっていることの価値を悟りたい」という祈りは以前からしていたのですが、漫画家への憧れのせいで考えが違う方向に行っていたから、それが邪魔をして悟れなかったのだと思います。
また、他の道ばかり見ていたせいで、自分がこれまで歩んできた道まで否定的に考えてしまっていました。
きゅうりがきゅうりらしくきゅうりの自負心をもって生きられるように、心を新たにして、自分の個性の道を一層悟り、自分にしか行けない引き上げの道を走っていきたい所存です。
2023年8月 MiK
P.S. 細かい話になりますが、調べてみたところズッキーニはウリ科カボチャ属、きゅうりはウリ科きゅうり属なので、同じウリ科でもズッキーニはかぼちゃの仲間であってきゅうりの仲間ではありませんでした。あと、ズッキーニの生食もあるようです。