ハレルヤ!
キリスト教福音宣教会のMiKです。
コンクエあとがきで「作品を描きながら悩みや葛藤があったけど、それはまた別の機会に」と書きましたが、今回はその悩み葛藤、そして漫画を描き切って得られた悟りについて書こうと思います。
何度か書いてますが、私は信仰を持つ前、少年漫画家になりたかったのですが、聖書の御言葉から感動を受けてその道を諦めました(詳細こちら)。
その当時はだいぶ無理やりというか、問答無用で切り捨てたというか、そんなやり方で漫画家(商業漫画家)の道を諦めていて、自分の思いや憧れを無理やり箱に詰め込んで地面に埋めたような状態でした。
その後、信仰生活を続ける中でより「霊的な」作品を手掛けるようになり(御言葉イラストや聖書アニメなど、直接的に証する作品)、さらに自分が本当に好きだった漫画も再び描くようになりました。
ここに至るまでの道のりも簡単ではなく、それまでのもがきと葛藤は以前の記事に詳しく書いています。
再び漫画を描けるようになって、とても嬉しかったですが、同時に
「なぜあの時捨てなければならなかったのだろう」
という、悔しさのような感情も湧いてきました。
そして、かつて箱に詰め込んで埋めていた色々な考えや感情も一緒に蘇ってきました。
夢を捨てた当時の状況を考えてみると、御言葉の流れや霊的な状況としても、漫画家の夢を持ったまま信仰生活をして漫画家を目指していくというのは難しかったと思います。
夢を捨てて、伝道・祈り・御言葉に投資したことで得られたことも多かったし、その後「霊的な」作品に携わってきたことで成長したことも多かったです。
そういう過程を通して私が霊肉成長したので、時になって神様が再び漫画を描けるように与えてくださったのだということを(頭で)理解はしました。
しかし、実際に今、信仰を持ちながら漫画家の道を歩んでいる人たちもいる中で、
「どうして私はそのような道じゃないのか」
「なぜ私は捨てなければならなかったのか」
そういう考えがぐるぐる頭を回って感情の整理が全く出来ませんでした。
無理やり切り捨てた故に当時整理できなかった感情や納得できていなかったこと等が自分の中で溢れ返りました。
かつて夢を諦めた時、「漫画家になるという選択肢は今後一切存在しない」と自分に言い聞かせて切り捨てたはずが、実際はそういうわけではなくて、なろうと思えばなれるところにそれはあったわけで。
でもそれに気づいたときは夢を捨ててから10年以上経っていて、かつて夢を追って頑張っていた時に戻りたいけれど、「何を今さら…」と冷淡な目を向ける自分もいて。
そして、自分がこれまで神様のためにやってきたことによって自分の漫画家になる道が塞がれてしまったようにも感じ(もちろんそれが違うということは分かるのですが)、自分がやってきたことまで否定するような考えに囚われるようになりました。
「漫画家」という存在に対する夢、憧れが、自分の中で本当に強かったです。
その一方で、実際に世の中で「漫画家」として働いている姿を想像してみた時に、信仰を持った今ではあまり魅力的に感じない自分もいました。
漫画はやはり(世の中では)エンターテイメントなので、もし漫画家としてやっていくなら世の中のニーズに合わせて世の中に合わせる必要が出てくるわけで。
しかし自分が描きたいものは(ダイレクトに表現しないにしても)信仰・神様・天の中の愛・歴史・etc…
自分が描きたい方向と、世の中が求める方向は合わないだろうな…というのは感じました。
「実際に漫画家になるのを想像すると違うような気がするけど、でも漫画家にすごく憧れがある」
という、自分でもよく分からない状態に陥っていました。
今ではさらさらと文章で書けるけれど、混乱の渦中にいたときは本当に意味が分からない状態でした。笑
自分でも自分の状態を理解できず、自分が何をしたいのか・自分がどうなること(どういう道を進むこと)が幸せなのかが本当に分からなくなったので、神様に祈っていました。
「やっぱり漫画家になりたいような気もするけれど、それが自分にとって幸せなのかが分かりません。
私にとって一番幸せな道はどこにあるのでしょうか。
神様は全知全能で、私よりも私のことをご存知なので、私が一番幸せになる道を教えてください」
このように切実に祈っていました。
コンクエを描き進めていた裏でずっと悩み葛藤し、そしてその答えが欲しいからこそひたすら描き続けていました。
コンクエは第一部〜第三部の三部作で、まず第一部を描き上げた時に何か答えがあるかと期待しました。
が、何もありませんでした。
むしろ自分が思っていたよりも教会メンバーからの反応が薄くて躓きそうになりました^^;(※コンクエはあとがきの通り初のオリジナル作品で、とても想いがこもった作品だったので期待も大きかったのです)
「チキュリア」の時の反響がものすごかったので、そのくらいを期待したのがいけなかったようです。あれはその当時「本当に漫画を描いていいのか」という今よりも前の次元で悩んで祈っていた私に神様が見せてくださった御働き・祈りの答えだったのだと思います。
続いて、第二部に期待したけれど答えはなし。
やはり最後までか、と第三部に期待しました。
第三部を制作している時、礼拝の御言葉で一つ衝撃的に悟ったことがありました。
2023年5月21日に「神様の目的を最優先にして生きなさい」という御言葉が伝えられたのですが、その中でこのようにおっしゃっていました。
神様がおっしゃった「私の目的のために生きなさい」という御言葉を聞いても、<神様の目的>のために生きないで<自分の目的>のために生きるから、長い間信じて生きた人も信仰が壊れ、神様の愛を壊して、自分の行く道に行くことになります。
鄭明析牧師 2023年5月21日 主日の御言葉「神様の目的を最優先にして生きなさい」
これを聞いてハッとしたのですが、「今、自分は自分の目的のために生きてるな」と感じました。
漫画家の夢に執着するあまり、絵を描くことも漫画を描くことも、神様の目的最優先ではなく自分が夢を成すことを目的にして行なっていることに気づきました。
これに気づいて今までの行ないを悔い改めるようになりました。
第一部、第二部は神様中心ではなく自分中心に、考えの中心が肉的になって描いてきてしまったと悔い改めました。
そして第三部は、自分が一番描きたかったこと(また、それは私自身が天に対して告げたい思い)が集約されてる章でもあるので(※念のため補足しますがバトルではなく一番最後のあたりです)、「途中は申し訳なかったけれど、最後の締めくくりは神様に捧げる思いで描き上げよう」と決心して描くようになりました。
第三部が終わりに近づく中、これで祈りの答えがなかったらどうしよう、とちょっと不安にもなりましたが、やはり神様は「最後まで」やった時に祈りに答えてくださいました。
あとがきに書いた通り、主にTwitter の読者さん(大部分が教会に通っていない人たち)から多くの反応と感想を頂くようになり、その中で、自分の「生(せい)」で神様や主を証できることが本当に幸せなんだな、という悟りを得ました。
この他にも、漫画を通して命の救いに繋がりそうな出来事も起こり、それを通しても一層悟りました。
最後まで描き切った時に神様が見せてくださったこれらのことを通して、ずっと祈っていたことに対する答えを受けました。
やはり私は、天のため、命の救いのために作品を描くことが一番「幸せ」のようです。
だからこそ、世の中で漫画家になるのは向いてないのだろうな、というのも同時に悟りました。(苦笑)
若干、自分がそういう性質の人間であることが恨めしくもありました。
世の中に合わせることも受け入れて漫画家を目指せるような気質を持っていたら良かったのに、なんてことも考えました。
それだけ漫画家に対する憧れが自分の中では強いのです。
自分で言うのもあれですが、形を選ばなければ世の中で漫画家としてやっていくだけの力量はあると思ってます。←
でも、やっぱりそれは私にとって「幸せ」じゃないんだろうなと思います。
漫画家に対する憧れはこの悟りを得た今でもあります。
そして、その道に行けないことが悔しくもあります。
この気持ち――他の道や他の人への憧れとか悔しさは、自分に置かれた御心、自分に任されていることの価値、そういうものをもっと悟っていけば、なくなっていくのだろうなと思います。
神様は「あなたに与える祝福だけでも手に負えないくらいある」とおっしゃるし、「別の人に与えるはずの祝福を与えるとその命が(手に負えなくて)死んでしまう」ともおっしゃいます。それは本当にそうなのだろうなと思います。
他の人、他の道を見る必要はなく、自分の祝福を受けて、自分の道を行くのが一番良い。
御言葉で聞いて頭で理解していても、それを自分が納得できるほど悟るのには本当に時間がかかりますね。
今もある悔しさが解かれていくにはこれまた時間がかかると思いますが、今はその悔しさをバネにして、天の作品を残すところにもっと投資して行こうと思っています。
どうせ描くなら歴史に残るものを描きたい、そのくらいの大きな夢(野望?)を持って。
こういう一つ一つが天との経緯と愛になり、そうやって自分も変化し成長し、一層神様に近づいていけるので、本当に天の中の使命は祝福であり、全ては創造目的に繋がるのだなと改めて感じるのでした。
天と共に歩める人生に改めて感謝したいです。
2023年8月 MiK
追記:解かれるには時間がかかりそう…と思っていたけどわりとすぐに解かれるようになりました。笑
詳細はこちらの記事をどうぞ。